個性



個性を大切にしましょう、という世の中になって随分久しいけど、その捉えられ方はどんどん変わっている。


昔から今も共通しているのは、社会という壁に人型の枠が絶対的に固定されていて、そこへ如何に自分自身を当てはめるかということ。昔はそれがまず " 当たり前 " でそれはもう疑念の余地もそもそもの発想もないほどで、枠に自分が合わない人がいたならば、ではどうやって嵌め込んでいくか。枠に合わせるのが前提だけど人それぞれに仕方なく合わない形が生じる、それを昔は個性と呼んだ。

ところが少しずつ、その意味が履き違えられるようになってくる。" 個人差 " をいかに受け入れて社会の枠を潜り抜けるか、という話だったのに「ありのままの自分こそが大切なのだ」と勘違いする子供が出てくる。それがどれだけ本末転倒で誤った認識かは言うまでもないが、大人になってもまだ分からない人もいて、僕はその中でもとりわけ気づくのが遅かった。ようやく壁にたどり着いたときには、その枠を潜るにはあまりにも己の形は不完全で異形で、しかも修正するには困難なほどに凝り固まっていて途方に暮れた。

今日、昼食にラーメン屋に入って券売機にお札を投入しようとしたら全く入らず、10秒ほど格闘したのち払い出し口に突っ込もうとしていたことに気がついた。こういうのは24時間四六時中起こっていることで、僕のオフィスでの働きぶりはここに書くまでもないだろう。「マイペースもいいけど、別に休日出勤してもいいんだよ」と先輩から釘刺された時、学生の頃に少し片思いしていた遅刻しがちな女の子が「私が遅いんじゃないねん、時間が私を置いていくねん」と口癖にしていたのを思い出した。



土曜日は朝から堀江の公園に行って、ボーっとコーヒーをすすろうと決めていた。自転車でアメ村を通り、セブンイレブンのホットとマカデミアナッツのホワイトチョコを買っていった。一瞬コアラのマーチに手が伸びそうになったけど、ためらって先述のチョコに切り替えた。大人が公園でコアラのマーチを食べていたらおかしいですから。ちびっ子達に格の違いを見せつけてやろうと思っていたのに、いざ到着すると、その子達は僕と同い年くらいのお父さんとキャッチボールに勤しんでいた。0勝1敗。

敗北のマカデミアナッツをコーヒーで流し込みながら考え事をする。自己だけで完結する快楽を純粋に享受できるのは25歳くらいまでで、あとはもう子を儲けるしかないのではないか? 目の前でボールとじゃれているこの子達を。全てが無味乾燥としていて、何をしても、良いのだけれども、旨いのだけれども、と「だけれども」がついて回る。刺激には慣れているくせに、悲しいことや嫌なことしっかり体に染み入ってくる。それでも生きる原動力を生み出してくれるのはもはやこの年齢において我が子の笑顔だけなんだろう。だからみんな、家庭を持って子を授かるのだなと思った。以前は公園のベンチでじっとして過ごすなんて狂人がやることだと決め付けていたけど、日々を忙殺されている人にとっては「ただ何もしない」ことはとても大事な行為だとも理解した。

しばらく南堀江を歩いて、既視感を覚える光景にあたった。もうひとつの公園が見えてきてその中央に小高い丘のような遊具があったのだけど、昔付き合っていた女の子とここを通りがかったことがあって、その時の僕はふざけてこの丘を駆け上がったのだった。わざと彼女を困惑させたくて、頂上でしたり顔をして反応をうかがうと、含み笑いをしながら僕を無視して一人歩いていたのを覚えている。その恋は今から丁度一年ほど前に終わってしまい、しばらくは地獄の日々が続いた。当時はもう二度と戻りたくないと断言できるほどに辛い思いをしたが、今となったら彼女を惜しみ続ける日常すら懐かしい。何かを忘却するには他の悩みで頭を埋め尽くすのが頓服薬であり、僕の場合それはこの繁忙期の狂騒であるわけだけど、忘れるというより一つの時期が持つ力の死滅といったほうが自分の中でしっくりときた。

何度か買い物をして、改めて財布がハチャメチャな惨状にあることを思い知らされた。ここ8年くらい、マルタン・マルジェラの財布を愛用していたのだけれどももう小銭入れがボロ雑巾のようにビリビリ破れて、硬貨が財布の裏側まで入り込んでしまっている。セロハンでの補強もすぐダメになって、余計みずぼらしさに拍車をかけるだけの舞台装置のようになっていた。何を思ったか無印で財布を買おうとした(今の自分は " 無 " がお似合い)のだけど変哲も仕掛けもない二つ折りが\12,800するのを見て、あ、無印って高かったんだなと思い出した。あらゆるものが飽和している現代において " 無 " はお高くつく代物なんだろうか。そういやさっき僕は公園で何もせずにボーっとしていたけど、これも見方によれば貴重な休日の時間の数十分を消費している。気軽にプレーン味を選ぶことすら許されない時代に突入しているのだ。僕たちは透明以外の色でカスタマイズした迷彩服を身につけて、どこかの戦場で生き抜くことを強いられている。

僕はよく、この街中に住んでいることを冗談めかして鼻にかけることがある。シティボーイなんていうと阿呆らしくも聞こえはいいが、つまりは社会という巨躯の間で磨り潰されているだけだ。引っ越した当初から覚悟はしていたのだが、街は思いのほか狭くて次第に都会と名の付く箱庭の中に閉じ込められている感覚が早くも忍び寄ってきた。今の仕事も、北は滋賀県、西は姫路まで車を駆り出さなくてはいけないのでスケールそのものは以前の生活とは比較にならないほど広くなった。はずなのに、どんな遠いところへ、100km以上走っても走っても、自身が見えない柵の中に幽閉されているように思えてならない。自分がクリエイティブだと言う気はないが、なまじ空想癖や想像力がある者にとって、己の脳内より広大な領域はこの世にはない。手にする物はどれもが、こんなものか、でしかない。

仕事で己を磨耗させて社会に擦り合わせ続けていると、自分自身を見失ってしまう。この頃は特に酷く、僕という人間は最初からいなかったのではなかろうか、自我なんてハナから持ち合わせてなかったんじゃないかと最低限のエゴすらも迷子になってしまう。だったら今、Ed Sheeranの新曲をいたく気に入って何十回も聴いている、その行為を選択して、食後にカクテルのゴッドファーザーを飲むことを好き好んでしている人間は何者だという話になってきて、それを考えると涙が出そうになる。どれだけこの体と脳を使い尽くしたと思っても、感覚だけは生まれた時から歩んできた轍の延長線上からは決して外れることはない。



そういや最近、急激に目が悪くなった。車に乗っていても、赤信号で緑色に光る右折や直進のマークをかなり近づかないと判別できなくなっている。人間は肉体の五感が世間から離れていく代わりに心の目が世の中のヴェールを見透かせるようになっていく。そして老境に達し、この世の真実にたどり着いたときに肉体が必要なくなって死を迎えるのだと、そんなくだらない仮説を立てているのだけど、その理屈でいくと僕は本当のことを知るためにもう少し生きなければならない。




2017.02.25 | | コメント(0) | 日記

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